「月は二度、涙を流す」そのL


第五章
6 六日目

 朝は、以前にも増して静けさが屋敷を取り囲んでいた。日の光も無く、朝から冷たい小雨が降っている。鳥の鳴き声も聞こえず、草原も森も空も死んだように沈黙していた。ただ、雨が背の低い草花を打つ音だけが虚しく時を刻んでいる。
 恵美は真一郎を探していた。昨日の夜から、姿が見えなかった。片付けが終わった後、二人きりの夜を楽しもうと約束していた。しかし、いくら待っても真一郎は恵美の前に姿を現さなかった。
 朝食の時間になった。しかし、食堂に人気は無い。誰もいなかった。皆、自分の部屋で食べると言っていた。恵美もそれには不信を抱かなかった。この情況で皆で仲良く食事など出来るとは思えなかった。
 しかし、それであったとしても、昨日の夜から一度も真一郎の姿を見かけないのはおかしい事だった。真一郎がいなくては今日の予定が立てられないし、何よりも自分の体を誰よりも愛していた真一郎が、自分の誘いすらすっぽかすなど、今までに無い事だった。それに真一郎と最後に会った時に言った、すぐに帰ってくる、という言葉も気掛かりだった。 時間は午前九時半。いつもなら、朝食の後片付けをする時間である。なのに真一郎は現れない。恵美は屋敷内を歩き回って真一郎を探した。


 望の部屋の扉をノックする。何故望の部屋を訪ねたのか、恵美自身よく分からなかった。ただ、誰か聞けば分かるかもしれない、という思いがあった。彼が既にこの世にいない、などとは思いもしていなかった。
 しばらくの間を置いて、扉が開いて望が姿を現した。望は普段とはかけ離れた、トカゲのようなギョロッとした目を恵美に向けると、気怠そうな顔をしてボサボサの髪の毛を乱暴にかきあげた。
「何か用なんですか?」
 眠っていないのだろうか。望の声は酷く嗄れていて、喉が潰れてしまったかのように聞こえた。目の下にはうっすらとクマが出来ている。間違いなく、普通の望ではなかった。しかし、一昨日の事を考えると、決しておかしい事とも言えなかった。
 恵美は望に声をかける前に、一度室内を見渡そうとした。しかし、望は扉を半分も開けず、その半分すら身体で覆い隠してしまっている。その格好が恵美には、まるで室内を見られたくないような素振りに思えてならなかった。
「真一郎知らない? 昨日の夜から見てないのよ。望さんなら知ってると思ったんだけど‥‥。何か心当たりでもあるかなって」
 少し声が裏返ってしまう。望の風貌が普段とあまりにも違う為、恵美はどうしても心の動揺を隠せなかった。そんな恵美を知ってか知らずか、望は微かに笑って恵美を見つめ返した。その笑顔もさっきの笑み同様、見ていて心地好いものではなかった。
「いや、昨日の昼から会ってない。恵美さんの方があの人の居場所なら詳しいんじゃないんですか?」
 何故だか分からないが、そんな答えが返ってくるのが恵美には予想出来た。そして、それが決して信用出来るものではないという事も。
「ちょっと、部屋の中に入れてくれる?」
 懸命に疑惑の色を隠しながら、恵美はそう言った。望はしばらく考え込んでいたが、やがてまた気持ち悪く笑うと、ゆっくりと扉を開けた。恵美は唾を一口飲み込むと、中に入った。
 いつもと変わりの無いように見える室内。いつもこの部屋は真一郎が掃除をしている為、恵美はこの部屋に何らかの変化があったとしても気づく事が出来なかった。しかし、この部屋が何か違う、という漠然とした違和感を確かに恵美は感じ取った。肌にまとわり付く雰囲気のようなものが、いつもとは違う。
「別にここにはいませんよ。何で僕がそんな事を隠す必要があるんですか?」
「‥‥それもそうよね」
 望は恵美の傍から片時も離れようとはしない。まるで恵美を監視しているかのようだった。恵美は後頭部に感じる粘ついた視線に耐えられず、すぐにここから出る事にした。
 見た限りでは特に変わった様子は無いが、望が傍にいたのでは探すにも探せない。恵美は一昨日、望が恐ろしい形相で例の少女を怒鳴り散らしている光景を思い出していた。再びああなられては色々と面倒な事になりそうと判断した恵美は、反転して廊下に出た。 部屋を出ると望はどこか安心したような顔をした。それを恵美は横目でしっかりと見ていた。
「今日、ちょっと出掛けるかもしれないけど、別に気にしなくていいですから。ちょっと大学で使う本を買いに行くんです」
 扉を閉める寸前、望はそんな事を言った。そして、恵美が明らかに不審そうな目で望を見た時、既に望は扉を閉めていた。
 廊下に一人佇む恵美。恵美は明らかに望を疑っていた。しかし、望が真一郎に何かしたとしても、一体どんな理由でそれをしたのか分からなかった。
 幾つもある窓に小雨がぶつかり、ポツポツと音を立てている。こんな天気だからだろうか、恵美の心もどこか憂欝だった。この屋敷もあの空模様同様、灰色に染まっていた。
 ふと廊下の端に目を止まった。そこに誰かが立っていた。近づく様子も無く、ただそこに立っているだけだ。恵美の距離からでは誰なのかよく分からない。恵美は夢遊病者のような足取りで、その人物の方へ歩いていく。
 それは光だった。何故か赤いドレスを着ていた。手に何か黒い物を持っていて、じっと恵美を見据えている。恵美が近づくと光はにっこりと微笑んだ。まるでマネキンが動くかのような、決まった動作だった。
「‥‥こんな所で、一体何してるの?」
 恵美が訊ねると、光は何も言わず笑顔のまま手に持っていた物を恵美に差し出した。それはビデオテープだった。恵美は光らしくない物だな、と思いながらもそれを受け取った。手からビデオテープが離れた瞬間に、光は踵を返して、一階へ続く廊下を下っていってしまった。しかし、階段の途中で一度止まると、恵美の方を見てこう言った。
「面白いものが映ってるわよ」


 優香は机から顔を上げた。いつ眠ってしまったのか分からなかった。ソファには相変わらず少年が座っている。部屋に二人しかいない事を確かめると、優香は安心して大きなため息をついた。そのため息が、雨音にかき消された。
「うわ言、言ってましたよ。蝶々がどうとか‥‥」
 少年は窓から見える灰色の風景を見ながら言った。優香は少し驚いたが、蝶々と聞いて少し思い当る事があったので僅かに疲れた笑みを漏らした。
「私、自分の事を蝶々だと思ってるから」
「昔から空を飛ぶ象徴は鳥と決まっているらしいですよ。蝶々のあなたは、少し空に対する思いが違うのかもしれません」
「そうね。空を飛びたいんじゃなくて、大地に足をつけていたくないのかも」
「‥‥落ちる事が、恐いんですね?」
「ええっ。何よりも」
 この憂欝、掴み所の無い不安、あの少女に対する恐怖。全ては大地に落ちる事が恐いからだった。大地に落ちる事。それはまたあの薄汚い都会に戻る事だった。
 優香はゆっくりと立ち上がると、少年の隣に座った。少年は少しやつれた優香の首元に触れ、その後髪の毛に触れた。優香の髪の毛は、雨露にうたれたように湿気を帯びている。「綺麗ですね。僕、髪の毛の綺麗な人って好きです」
「昨日、お風呂に入ってないのよ」
「貴女の匂いがするから、それでいいです」
 少年は優香の腕に頭をつけ、髪の毛に匂いを臭いだ。優香は再び小さなため息をついて、テーブルの上の煙草を手に取った。少年の円らな瞳がそれをずっと見ている。
「まだ、恐がっているのですか?」
 ライターの炎が、優香の瞳と少年の瞳を橙色に照らす。優香は煙草に火をつけると、煙と一緒に言葉を吐き出した。
「ええっ。きっともうすぐ何かが変わるわ。それにどう対応すればいいのか、よく分からないのよ」
 その時、どこかで銃声の音が聞こえた。それと同時に交じる女の怒号。優香は瞳を閉じて、静かに煙草を吸い続ける。少年は優香の髪の毛に顔を埋めている。二人共、全く驚いていなかった。銃声と女の怒号は静かに、しかし断続的に続いた。それでも、二人は動かない。
「音が聞こえる?」
「はい」
「‥‥あれが、大地よ。私を落とそうとする」
 優香は煙草を灰皿に押し当てると、ソファの下に入れた。そして、黒い物体を取り出した。拳銃だった。弾を確かめると太股の上に置いた。拳銃の鈍い輝きに似た少年の瞳が、髪の毛の向こうに見える優香の顔を凝視している。優香の瞳の輝きは、拳銃の鈍い光さえ跳ね返していた。
「私は、落ちたくない」


 恵美は何の躊躇も無く、ライフルを望に向けた。望は脱兎の勢いで一階の階段を駆け降りていく。恵美もその後を追い、逃げる望の背中に向かって銃弾を放った。しかし、寸前の所で弾は反れて、望には当たらなかった。
「望ぅ! 出てこい! 殺してやるから!」
 恵美は瞳を真っ赤にしながらも、懸命にライフルに弾を込める。手が震えて思うように弾は装填されない。ボロボロと弾を涙を零しながらも恵美はライフルを握り締めた。
 光が渡したビデオテープに映っていたもの、それは真一郎が望に刺し殺される瞬間を撮ったものだった。隠しカメラだった為、画像は決して鮮明とは言えなかったが、望の持つナイフが真一郎の首に突き刺さるシーンははっきりと見る事が出来た。
 これを見た時、恵美は体中の血が煮え繰り返るほどの激情を覚えた。そして、それと同時に目からとめども無く涙が溢れた。愛していた者が、昨日、自分が何も知らず眠っている時に殺された。その事を思うと悔しくて悔しくてたまらなかった。何故、望は真一郎を殺したのか、何故光がこのビデオを持っていたのか、そんな理由はどうでもよかった。真一郎が死んだ、という事実だけで、恵美はライフルを手に持った。
 光は昔、望がこっそりと自分の部屋の浴室に取り付けたカメラを、望の部屋に取り付けていた。望はそれを知りもしなかった。光自身も何故、自分の浴室にカメラがあって、それを兄の部屋に取り付けようとしたのか、よく分からなかった。ただ、勝手に体が動いていた。 
 一階に降りる。望の影が赤い絨毯に付いている。恵美はその影に向かって引き金を引いた。バシッという重い音が響き、赤い絨毯に銃弾がめり込んで黒い焼け跡と白い煙を作り出す。しかし、その時にはもう影は無くなっていた。一階の長い廊下には誰もいない。おそらくどこかの部屋にでも隠れたのだろう。恵美は確かな足取りで一つ一つの部屋を調べていく。しかし、どこにも望は見当らない。歯軋りをする度に、恵美の口の端から細い血が滴れた。力みすぎて歯茎を痛めた事すら、恵美は気付いていなかった。
 恵美はライフルを構えたまま、食堂に入った。食堂は食事をする場と台所の間が非常に狭く、食堂の入り口からでは台所は完全な死角になっていた。恵美はゆっくりと台所へと向かっていく。鼓動が激しくなり、ライフルを持つ手の震えがますます激しくなってくる。それを恵美は気合いと殺意で圧し殺した。
 その時、後ろの方で音がした。振り向くとテーブルの下から望が顔を出している。恵美は素早くライフルを向けると、弾が無くなるまで望に狙いを定めて撃った。いつも自分が綺麗に拭いている長いテーブルに次々と穴が空き、椅子の背もたれが吹っ飛ぶ。大理石で出来た床に破片が落ちて、カサカサと音を立てる。それでも弾は望には当たらない。望は身を低くしながら、入り口に向かって走り続ける。そのすぐ後を追うように、銃弾が飛んでいく。銃弾は望の姿と一テンポ遅れて壁に映った。そして、穴を開けた。何発撃ったのか分からなかった。とにかく、全弾撃ち終えた時には、既に望は食堂から消えていた。
「‥‥」
 恵美は大きく舌打ちをすると、再び弾を装填する。一階で、あと残っている部屋は昇の部屋だけだった。もしくは、再び二階に上がったとも考えられる。恵美はどちらに行こうか考えながらも、弾をライフルに込める。
 潰れた雨が張り付く窓に映る恵美の姿は、涙の止まらない目を真っ赤にし、体中から脂汗を滴れ流し、見るも無残な姿だった。
 それはたった一人の仲間を失い、独りで暗い草原を彷徨う雌狼。行く場所を無くし、愛する者も無くしたあまりも悲しい狼。そんな彼女は、空に浮かぶ月さえも食い千切らんとする程に鋭く突き出た牙だけを頼りに、歩き続ける。全てを奪った者を食い殺す為に。


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